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本心

軋む体を引きずりながら、湧き上がる歓声から離れて行く。
試合が終わるよりも先に、頭に上っていた血が引き、冷静さを取り戻した劉は浅い呼吸を整えながら歩き続けた。

…とんでもねぇ詩人だったな。

闘技者で詩人。
一言で言えば「文武両道」を体現したような男ではあったが、それを一言でまとめるには余りがあり過ぎるだろう。

…詩、か。

ナイダンに言われた言葉を思い出すと同時に、網膜に焼き付いた光景が脳の中を駆け抜ける。
最後に交わした言葉、試合中に向けられた優しい視線、まだ腕に残る血と肉の温かな感触。

…くそ。

腹部から段々と力が抜けていく感触が手の平に残っていたが、それを打ち砕くように、感情のままに壁を殴ると、鈍い痛みが拳に残る。
試合の最中に見た、都合のいい夢が毒の様に心をゆっくりと蝕む。
いつから、どこから蟲と繋がっていたのか、もしくは最初から繋がっていたのか。
なら、自分に向けていた全ては嘘だったのか。
友人だと思っていたのは、自分だけだったのか。

…いや、多分違うはずだ。

違うはずだと、信じたい。
最後に見せた優しい視線が、また思い浮かんでは、ありもしない可能性について考えてしまう。

「たられば、嫌いヨ」

自分自身に言い聞かせるようにして、歩き続けた。
けれど、脳は考えることをやめてはくれない。

「ナイダン…」

夢は願望を写すのなら、あの夢は自分の願望なのだろう。
そう考えが行き着く度に、劉は奥歯を噛み締める。

…蒼穹?蟲?そんなもん知らねぇよ、何も…、何も知らねぇよ。

煉獄にいる時点で、人に気軽に話せるような過去を持つものは少なく、劉もその一人だった。
ナイダンだけでなくニコラや飛もそうなのだろう。
くだらない話をして笑ったり、みんなで麻雀して遊んだりした程度の『親しい友人』だったが、どんなに笑っていても瞳に灯る暗い炎は隠しようがない。

「馬鹿、」

ぽつり、と、こぼした言葉に鼻の奥がツンと痛くなるのを感じ、立ち止って顔を上げた。
無機質な白い電球が、高く小さな音を出しながら劉を照らしている。
ナイダンの事は、知っている事よりも、知らない事の方が多かった。
けれども言いたくない事は言わなくていい、聞かれたくないことは無理に聞き出さない。
それでいいと、思っていた。
思っていた、はずなのに。

「馬鹿ヨ、あなた…」

事情も、気持ちも、何も知らなかった。
何も知らず、何もわからないまま、いつの間にか失っていた。
意志の強い彼の事だ、聞いた所で何かが変わるとは思えない。
けれども、心身ともに疲れ果てた劉の思考は、都合の良い「たられば」を考える事をやめることが出来ない。

…どんなもん背負ってたかなんて知らねぇけど、命を粗末にしたお前に腹が立つ。

天井に吊られた案内表示に書かれている文字を読むと、重い足を引きずりながら、また一歩ずつ歩き出した。

…けど。

瞼を閉じると、嫌でも思い出してしまう。
囁かれた詩のような言葉、戦いの中で見せた優しい眼差し。
時々、とても優しい声で名前を呼ばれると、胸の奥が疼き、じわりと熱くなる。
彼にくだらない事を言うと、呆れたような声が返ってくる。
それが楽しくもあり、少しうれしかった。

観戦中、大きな手が劉の髪に触れた事に気がついていた。
普段よりも高い位置で髪を結われ、数束ずつ編み込まれて行く。
その感覚に少し目を細めて、気が付かないふりをし続けた。
他の者ならともかく、ナイダンに髪を触られるのは、嫌ではなかった。
指先から爪の先まで、優しく大切に触れてくれる感覚が心地よかったからだ。
閉じていた目を開けると、角を曲がり、エレベーターに乗りこむ。

「あんなところで、死ぬナイね…」

備え付けられた案内表を見ながら、階数ボタンを押すと、エレベーターの扉は締まり下に向かって動き出した。
ニコラや飛に感じていた気持ちとは違う、穏やかな感情に名前をつけようとしなかった。
けれど、名前もない淡い感情は、劉の中で確信と名前を得た。
軽い機械音と共にドアが開くと、廊下の明かりは心なしか先ほどの階の明かりよりも暗く感じた。

重い扉を開き、部屋の中に入る。
廊下よりも薄暗く、中に充満している空気がどことなく冷たく重い。

…最初から死ぬつもりだったってことかよ。

収めたはずの静かな怒りを、ゆっくりとたぎらせながら、片腕で巨大な冷蔵庫の扉を端から開けていく。

…だったらなんで、

一つ、二つ、と扉を開けていくと、中から冷気があふれ出す。
最後の扉を開くと、見覚えのある髪の色が見え、考えるよりも先に伸ばした片腕に力が入る。

…なんで、あんな顔で俺を見たんだよ。

試合中、最後にこちらを振り返って見せた表情は、脳裏に強く残っていた。
遺体安置用の冷蔵庫から引き出すと、血の気が引き青白くなったナイダンが横たわっていた。
優しく見つめてくれた目は閉じられ、優しく触れてくれた温かな手は硬直し、太く大きな首には血の痕が残っていた。

「ナイダン」

柔らかいはずの頬に触れると、陶器のように固く、氷のように冷たい。
手のひらの温度が吸い取られていく。
触れた部分から、自分の中に死が入り込んでくるような感覚に、眉をひそめた。

「アナタ、大馬鹿ネ」

腹の底に渦巻いていた言葉を吐き出すと、鼻の奥からツンとした痛みを感じた。

「死ぬまで闘う、馬鹿のすること。私言ったヨ」

タトゥーが入っていた箇所に触れるも、血の気が引いている為、もう蟲のタトゥーは見えなくなっている。

「お前の事、大嫌いヨ、とても」

それは置かれている状態も、最後に見せた優しい視線の意味も、何も知らず、わからなかった自分に対して言っているのか。
誰にも何も言わずに、自分の命を簡単に投げ出したことについて言っているのか。
本人にもその区別がついていない。

「あんな事…するナイよ……」

せざるを得ない状況があったのだろう。
そうでないのなら、試合中にあんな視線を送ったりなんてしないはずだ。
頭の中ではそうわかっていても、心がそれに納得していない。

「ナイダン…私…」

かすれた声が喉に詰まる。
喉に言葉が張り付いては、焼けつくように熱を持ち、鈍い痛みを出しつづける。
石のように固くなってしまった腕に触れると、試合中に見えた、もう訪れることのない故郷と、自分と同じ言葉を話す彼を思い出した。

「对不起,我撒谎了」

劉は自分の気持ちに嘘をついたことに対して謝ると、ナイダンの頬を撫でる。
凍りついた肉の硬い感覚、指にまとわりつく乾いた血のざらつき。
乾いた脂が、触れた手のひらに付着すると、手の温度で少しだけ溶ける。

「我很喜欢你」

劉は身を屈め、氷のような唇にキスをした。
冷たく、硬く、少し荒れた薄皮の感覚を唇で感じ、ゆっくりと目を開く。
青白く冷たい顔が、なにも変わらずそこにあるだけだった。

…そうだよなぁ

遅すぎるよな、と自嘲のような吐息をこぼし、屈めていた身を起す。
気がつくのが遅すぎた、そう思いながら自分の唇に触れる。
乾燥した皮膚と、わずかに残った冷たさ。
けれどそれに比例する様に胸の奥は熱く、鈍い痛みがあった。

「ナイダン…!」

頬を伝う涙をぬぐわずに何度も名前を呼ぶ。
胸にある痛みが、深く、鈍く、痛みを増して行く度に劉の目から、とめどなく涙がこぼれ落ちる。


傷の手当てが終わり、廊下を歩いていると次の試合が始まる司会の声が廊下に響く。
その音を背中で聞きながら、徳尾は医務室に向かう廊下を歩いていく。

…拳願ルールではないことは理解していたのだが。

場外に出されて負けた事実は変わらない。
そう思い直しながら背を正すと、廊下の奥から足音が聞こえ思わず身構える。

「…詩人さん、何してるヨ」
「君か、」

振り返ると、かすれた声と、引きずるような小さな足音の劉がゆっくりと近づいてくる。

「手当、終わったカ?」
「ああ、君は…まだだろう?」

医務室に向かったのはほぼ同時。
だが先に着き、手当てを終わらせるまでの間に来なかった理由は、考えるまでもないだろう。

「今からヨ、手当」

折れた腕を抑えている手には、乾燥し粉になった血が付き。
頬にこびりついた血は、涙が流れ落ちた跡が残っている。

…彼のところに行ったのだろうな。

それ以外ないだろう。
蛍光灯が出す小さな音を、すり足の足音がかき消す。
心なしか、肺の音がかすれているように聞こえ、徳尾は横切ろうとする劉の横を並ぶように一歩踏み出した。

「…傷を、受け入れられそうか?」
「傷、あぁ…。」

それの事か、と言わんばかりの声を横で聞きながら、劉が数歩。

「割り切れないままネ」
「…そうか」

徳尾が一歩。
無機質な廊下に二人の足音が静かに響く。

「冷静になったヨ、私。」
「ほう」
「絶対させるヨ、ナイダンの報い。受けさせるネ。でも…あの坊やじゃナイ」

直接的な原因ではあるだろう、けれども自分で傷を深くしたのは誰の目にも明らかだった。
試合中のナイダンの行動も含めて考えると、あの自殺は蟲からの命令なのだろう。
その証拠に、試合後の相手様子を思い出し、劉は小さな歩幅でまた一歩進む。
だが、試合後の様子を思い出す限り、龍鬼は最初から殺す気なんてなかったのだろう。

「蟲に、ネ」

真相を知らない以上、今の劉には考え続けることしかできなかった。
腹の底に仕舞い込まれたであろう怒りが、静かに瞳の中で燃えているのを見て、徳尾は眼鏡を押し上げる。

「ならまず、今は療養だな」
「…腕、固定しないと。ひしゃげて戻るネ」

完治するまでは待つつもりはないのかと、思いながら合わせていた歩幅をわざとずらす。

「そのまままっすぐ進めば医務室だ」
「わかったヨ」
「…あと、私は『詩人』ではなく『小説家』だ。それだけは覚えておいてくれ」

なんでそんな奴が格闘技をたしなんでいるんだ、と言いたげに片眉を上げている劉に、逃げるように言葉を続けた。

「私はここで失礼させていただくよ、また医務室に戻ったら解剖…いや、再度治療をされかねないからね」
「ん、わかったヨ…アリガトね。詩人先生」

詩人ではないのだが、と言いかけた言葉を飲み込み、遠ざかっていく背中を見つめた。
体は傾き、足を引きずりながらも、少しづつ前に向かって歩き続けている。
こんな世界に身を置き、そこで復讐をするのなら、末路は想像以上に悲惨なことになるだろう。
けれど、それを止めるだけの理由は、今の徳尾にはない。

「…歩み続けろ、劉君」

見守るように目を細めながら、遠ざかる背中を見つめた。

***

冷静さを取り戻してもあいまいな考えが浮かんでは消え、試合中のナイダンの行動や、試合後に言われた言葉の意味を考えすぎてしまう。

…蒼穹、ってのにはまだ行けそうにねぇか。

真相を知るには、蟲から情報を聞き出さなければならない。
だが、そのためには。

「あっ!劉選手ですね!!やっと来た!」

医務室の扉を開けると、看護師の声に反応した医師がこちらに近づいてくる。
劉は寂し気に笑いながら、一呼吸吐き出す。

…ナイダン、必ず蟲の奴らには報いを受けさせる、だから。

「フフフ。さぁ解剖台…じゃない、ベットに座ってくれ」

医師がカルテに何かを記入しながら、部屋の中に招き入れるように話すのを聞きながら、明るく白い光で満たされた部屋に、一歩踏み出した。

…そっちに行くまで待っててくれ。


劉の話していた中国語の日本語訳

ごめん、嘘ついた
对不起,我撒谎了

貴方のことがとても好きだ
我很喜欢你

※翻訳機を使ったため、文法などに間違いがある可能性があります

プラトニックノイズ

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